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日立への演奏旅行&寮生活の思い出

この投稿は、私が電機会社に入社した時の同期生が、75才になったのを機に記念誌を発行することになり、近況報告として
まとめたものです。団員の皆様には、演奏旅行の思い出としてご覧頂ければ幸いです。
<日立への演奏旅行> 安 邦男

 私は今、千葉県流山市で活動する“コールJUN”と言う平均年齢70才半ばの男声合唱団で歌っている。
私たちは、一昨年10月に、日立市で1泊2日の演奏旅行を行った。日立は、私が子供時代の7年間と入社
後の5年半を過ごした思い出の地である。この度、同期会で記念誌を発行するとのことから、私の近況を
お伝えするため、その時の活動状況をご紹介したい。尚、日立にお住いの皆さんには、今更と思われる

分もあるだろうが、その部分は、読み飛ばして頂きたい。 創業小屋
  
 演奏旅行初日の午前中は、日立工場内にある小平記念館と創業小屋を50数年ぶりに見学した。小平記念館では、小平創業社長の銅像や遺品、発電に長く使われたためバケットの一部が腐食したペルトン水車やカプラン水車を見た。小平記念館の屋上から山の方を見ると、大雄院にある建設当時世界一の高さ(156m)を誇った大煙突(新田次郎の"ある町の高い煙突"で紹介あり)が、短くなったように感じた。子供時代に朝晩見た煙突は、もっとスマートで高く凛とそびえていたように思う。
 次の、創業小屋には、初めて入った。ここは、創業時の方々が外国製 鉱山機械の修理をしながら、自主技術を追い求めて血のにじむ苦労をされた建物である。作業台の下には“わらじ”が一足そっと置かれていた。これを見て、後に社長になられた倉田さんの逸話(資材が無駄になっていないことを確かめるため、わらじ履きで工場巡視を行い、その後に”わらじ”の裏を見て、銅屑が付いていないこと確かめたと言われている。)を思い出して感じ入った。
 午後は、助川小学校近くの「ニチイケアセンタ日立」で、ボランティア演奏を行った。100才を超える入所者もおられたが、多くの皆さんに喜んで頂くと共に、我々もその姿を見て喜びのお裾分けを頂いた。
吉田正記念館その後、神峰公園にある吉田正記念館を見学し、帰り際に野外ステージで大声を張り上げた。その日の宿はサンピア日立で、昔と変わらない山に沈む夕日と海からの日の出を見ることができた。日立港に目を移すと自動車運搬船が入港するところで、大きな船の動きが良く見えた。二日目の演奏会は、高校の同級生で多賀工場に勤め、日立市議会議員を三期務めた河原子在住の渡部さんにご紹介頂いた「多賀市民プラザ」(元の清和館跡地にある)と日立おさかなセンター近くの「特養ホーム成華園」で行った。市民プラザでは、生涯学習塾「暇修学園」の方々の前で歌った。清和館は、50数年前、私が「日立製作所多賀・国分合唱団」在籍中に練習した場所で、当時を思い出して不覚にも挨拶の途中で声が出なくなった。 暇修学園

 成華園では入所者の表情から多くの皆さんに喜んで頂けたものと思う。色々な施設で訪問演奏をすると、体のご不自由な方が、テーブルや椅子を揺すりながら近寄って来てくれる。また数年前に行った小学校では、生徒の感想文の中に「僕が大きくなったら、コールUNに入りたい。」とあった。あと50年は、元気に頑張らなければならない。
 本年1月、松戸・森のホール21で、常磐線沿線にある男声合唱団の集まり「JORDAN会」による合同演奏会が開かれた。ここに「常磐ひたちメンネルコール」が参加していた。その指揮者は、なんと50年前に多賀・国分合唱の指揮をしてしていた上田さん(多賀工場)であった。演奏会終了後に楽屋を訪ねたが、あいにくご本人にはお会いできなかった。しかし、団員の中に、日立工場の石田さんがおられた。50年ぶりにお会いして声をかけたが、怪訝な顔をしておられた。無理もない。石田さんの髪は、黒くふさふさとして昔とあまり変わらなかったが、私の頭髪は、残り少なく前の面影は全くない。誰だと思われても無理はないが、一度、昔話をしたいものである。コーラスを通じて思うことは、「歌は喜び、歌は幸せ、歌は絆」ということである。
元気なうちは、歌うことを続けたい。

以下の文は、上記に関連して投稿した50年以上前の寮生活を綴ったものです。今にしてみれば、恥ずか限りですが、ご紹介させて頂きます。
<寮生活の思い出>     安 邦男
 入社前日の昭和35年3月15日、初めての寮生活を新山寮(日立市)でスタートしてから、2年弱をここで過ごした。部屋は、玄関わきの4人部屋で全員が新人であった。寮は、松林に囲まれその先は海であった。新人は、入寮早々、先輩から“松林に囲まれた寮の中で自主独立の精神を歌う寮歌”を教えられた。またストームと言う荒っぽい洗礼も受けた。当時のストームは、寮祭や村会(三棟の建屋×二階建てを六つに分けた単位で村と呼んでいた。)が終わった後、残りものの酒やビール・ウイスキーなどをやかんに入れて、部屋に入り込み、寝ている我々を叩き起こしては、酒を飲ませるのである。このお陰で酒を覚え、気の合っ た仲間と街に繰り出しては深夜まで飲み、バスがなくなって海岸通りをジグザクに歩きながら帰寮した。
 今でも、当時行き付けであった“クインビー”とか、“L”とか“M ”と言う名を思す。新館が建ってからは、さすがにこの習慣はなくなったようだ。 我々の入社は、創立50周年を記念する年であった。
これを記念して、大運動会が開かれた。寮対抗の演芸では、新山寮から白虎隊の詩吟に合わせた踊りが披露された。題名は確か「落城」だったと思うが、記念すべき場にふさわしくないとの指摘があり、別名に変更したように思う。運動会には、家族を含む大勢の人々が集まり、その前で、 ダンス

「少年団結スー、白虎隊……」と声高らかに歌いながら舞った。寮では、ダンスも盛んで、納涼パーティーとかクリスマスパーティーなどと銘打って、頻繁にダンスパーティーが開かれていた。私も平和通り近くにあったHDC(日立ダンスクラブ)に密かに通ったが、感が悪く短足でもあったので、私には不向きと思い、習うのをやめた。そう言えば、トランペットなどを吹いて演奏活動をしていたパールブラザーズは 運動会
ハイキング

どうしたであろう。工場主催の夜行軍も思い出深い。当時はまだ週休1日の時代。土曜日の仕事が終わった後、バスで工場から50kmほど離れた袋田まで運ばれ、そこから3名1チームの連帯責任で工場に帰ってくる恒例の行事であった。 袋田から竜神峡までの16kmは団体で歩き、 深夜12時に竜神峡を出発してからは自由競争となり、工場を目指すのである。真夜中にもかかわらず道の所々で、従業員や ご家族の方が水や野菜を用意してくれていた。それに助けられながら、懸命に工場に向かった。何としても収容バスには乗りたくなかった。必死に歩いた。明け方に最後の難所、真弓山が待ち構えていた。これを乗 り越えると、眼下に太平洋が見えた。下山では、つま先の方に全体重がかかって痛んだ。後ろ向きに歩くと、足の痛みはやや軽くなった気がした。住宅街に入ると、ラジオ体操の曲が聞こえた。やっと工場に帰れると思った。結果は、真ん中位であった。夜行軍が終わった後、2~3日は足が痛んでトイレも大変だった。
一緒に歩いた仲間は、同室の方々だと思うが、今でも懐かしく思い出される。寮生時代は、遊びもしたが、互いの仕事の話もした。同室の二人は、情管に配属され、英文のコンピュータ取説と格闘していた。もう一人は、エレベータ設計で、小生は器具設計に配属された。そこで新しい断路器の開発に取り組んだが、力不足を感じた。その後、照明器具の方に移動した。私は、新山を含め4か所で寮生活をしてきたが、これらを通じて多くの人を知り、いざと言う時には助けられた。同じ釜の飯を食った仲間は、いつまでも懐かしく心強く有り難いものである。 私は、見合い結婚だが、初めて家内の実家に行ったときに驚いたことがある。 そこは、新山寮入口の左側にあって、東側を鮎川クラブに接した畑の持ち主であった。ある時寮内で、誰かから茹でたさつま芋を貰って食べた。芋の調達先は、おおよそ見当がついた。結婚後にこの話を家内にしたら、さつま芋がなくなったことは気にはならなかったが、美味しかった桃が取られたのは残念だったとのこと。おおらかで良き時代ではあったが、過ぎたことで今でも反省している。 以上、思いつくままに寮生活の思い出を書いたが、読む方の気に障ることがあったら、50年以上昔のこと、時効としてお許し頂きたい。
10月の同期会では、亡くなられた方を偲びながら「新山寮寮歌」を声高らかに歌い、そして心行くまで語り明かしたい。 地元の方々には、大変なご苦労をお掛けしますが、よろしくお願いします。
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  1. 2016/10/20(木) 22:13:47|
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2016年・夏便り

                 コールJUN  伊藤幸二
今夏もあとわずか、昨年の猛暑続きに比べると当地は幾分凌ぎよい夏模様だったんでしょうか。西日本と九州方面は連日35度以上の連続猛暑日のようで、気の毒なくらいですね。
昨夏は猛暑つづきでバテバテの夏模様を綴りましたが、昨年隅田川花火に招待してくれた友人も病に伏せてしまい今年の隅田川花火は観れず、地元の手賀沼花火に孫達の訪れもなく、音だけ響く侘しい花火を老妻と聞くのみで、、、、、、、歳月の経過が無常観を一層感じる夏になりました。
昨年に引き続き、徒然なるままに、、、夏模様を綴ってみました。

テレビ朝ドラ(NHKドラマ)
「とと姉ちゃん」が快調なようです。暮らしの手帖創刊の奮闘記、父を亡くした3姉妹の長女(常子)を主人公に、波乱万丈のドラマ。
毎朝の流れでほぼ観ていますが、この春に終わった前回の「あさが来た」に比べると、地味でちょっと面白みに欠ける気がしています。
主役や脇役陣も今一つの感じで、魅力ある配役陣に乏しいなーと思っています。おもしろい役どころでは、仕出し屋の旦那、ピエール瀧くらいでしょうか。
それに比べて、NHK日曜の大河ドラマ「真田丸」の豪華俳優陣には魅入っています。
真田昌幸(父親)役、草刈正雄の貫禄と演技力、豊臣秀吉役の小日向文世の鬼気迫る演技には納得。これだけの豪華俳優を揃えられるのはNHKだけでしょうね。他のドラマはほとんど観ませんが、民放で放映されている、高校吹奏楽活動の熱血指導教師(寺尾聡)をドラマ化した「仰げば尊し」は観ましたが、いまいちリアリテイーに欠けてますね。

加賀白山・登山行
8月1日早朝5時金沢駅バス乗り場集合、テニスクラブの山とスキー同好会の有志4人で念願の白山登山に行ってきました。
前日夕方に北陸新幹線で金沢入りし、駅中のホテルに泊り、翌早朝の登山バスで出発。8時前、登山口の別当入り口から登山開始。金沢の天気は良好、石川、岐阜、福井の県境にある白山も梅雨明けの晴天を期待して登り始めた。
久しぶりの登山の為か歳のせいか、登り始めの30分ほどは苦しい、心臓が飛び出るんではと思えるほどの胸バクで、前途に不安を感じたが、慣れてくるとペースも上がり始め、途中何度も休憩しながら、11時過ぎには昼食の大休止。
高度2000M過ぎたあたりから天候が怪しくなり、宿泊の山小屋まであと1時間ほどで雨が降り出した。にわか雨ではと思ったが、しばらくして土砂降りの雨、急遽雨衣に着替え傘もさしながら登り続け、ようやく高度2400Mの室堂平の山小屋近くまで到達、雨も上がり始めたが、これまで経験したことのない濡れネズミの状態で山小屋に到着。
標高差1000Mほどの登りに休憩を入れて6時間、ちょっと甘く見ていた。山もでっかく、かなりしんどい山だと実感した。14時には小屋入りしたが、往複1時間半ほどの山頂は、天候も不安定な状況なので諦め、翌朝登頂を目指すことにした。ザックカバーをせずズボンも履き替えずで、ザック内の着替えも全てパー、山歩きにあるまじき大チョンボ。山小屋の乾燥室も宿泊客の衣類で満杯、床までびしょびしょの有様で、濡れネズミのまま自分の体温で乾かす最悪の事態となってしまった。山小屋も満杯、一畳に2人の雑魚寝も余儀なく、厳しい登山初日となった。
翌朝4時に起床の予定が、天候思わしくなく、朝食後ゆっくり山頂に向かうことにし、5時半の朝食後ゆっくり準備して、7時過ぎに晴れ間も出てきたので、標高2700Mの山頂目指して登頂開始。8時過ぎ山頂に到達し、長年の念願達成。視界は良好なれど次々とガスも発生、快晴の山頂とはいかなかった。
まじかの御嶽山もガスの中で見えず、日本海やアルプス連峰も無理、山頂の火口巡りも中止して早々に下山を開始した。
最終バス(15時)に間に合うべく14時頃には登山口に下山する予定だったが、下山途中に、小生の登山靴の底(ラバー)が剥がれてしまうハプニングや仲間の体調不良やら、想定外の事態続出。予定時間内に到着できるか危ぶまれたが、何とか15時半発の金沢行き最終バスには間に合った。
いろいろと反省事項の多かった白山行でした。
金沢駅に18時頃到着、19時発の列車で10時過ぎ上野に、何とか午前様にならずに帰宅した。週末まで3日ほどは筋肉痛で階段を下りるのに難渋、テニスどころでない週末となった。

オリンピック・高校野球
オリンピック真っ盛り。お家芸の柔道で快進撃が始まり、女子レスリングでの金メダル量産で沸いているが、4連覇がかかった吉田沙保里が無念の銀メダル、あんなに泣かなくても思うほどの号泣に胸が痛んだ。
いちいち弁解の必要なし、とうとう負けましたと開き直れ、、、、、敗軍の将兵を語らずだ。ほんとに報道陣の連中はしつこい、そっとしといてやれとテレビにどなってしまった。
日本の選手のインタビューは稚拙で、もっと外人のように話せる訓練が必要と思う。アナウンサーやタレントの解説や実況も、本当に下手くそ、頑張れ、気を引き締めて、あきらめるなの絶叫ばかりで、お粗末そのもの。
今回の競技で小生が勝手に選んだ、感動のベストスリーは、錦織のテニス銅メダル(このまま全米テニスに期待)、金藤の平泳ぎ金(なんであんなに澤穂希に似てるん)、女子卓球銅メダル(愛ちゃんの涙にこちらも貰い泣き)、おまけとして、女子レスリング69K級金の土性選手(太くてかわゆいもん)。
20日現在で、バトミントンでダブルスの金が取れたし、あと期待したいのは陸上400Mリレーかな。
各国別メダル獲得数を見ていて、ベストテン内の国々は、上位にアメリカをはじめ戦前の旧連合国と日本やドイツの枢軸国が並んでいるのに驚いた。国力の一面をはっきりと映しているんではと思った。敗戦国ながらドイツも日本も凄い国ですね。
テレビは夜明け前から昼頃までオリンピックLIVE中継真っ盛り。寝不足が続くが、このまま月末から始まる錦織の全米オープンにも対応できそう。(白山登山に備えて、7月末頃から早朝4時起床を日課にしたお陰です)

さて、プロ野球・ダメトラの失速には目を覆いたくなるが、ジャイアンツのリメークドラマなんって、とんでもない、絶対許せない、ここは節操なく、広島カープの応援に切り替えよう。

2週間前に始まった第98回甲子園の高校野球も終盤です。
明日は準決勝、いずれも強豪揃いの野球校ばかりなのにはがっかりなれど、絶対に勝たせたくない高知の明徳義塾が残っている。何とか熊本の秀岳館か北海道の北海に勝ち上がってほしいと願っている。(明徳嫌いは何故か、お分かりですよね)
今年の甲子園は、家内の出身校、島根の出雲高校が初出場となり、期待が高まったが、初戦の相手が今春の選抜優勝校奈良智辯高校になってしまい、2回戦進出の可能性が限りなくゼロと萎んでしまいました。公立進学校の出雲高校がまさか甲子園にと思っただけでもハッピーじゃん、ひょっとして、初戦突破すれば、そのまま勝ち上がり、61年前(昭和30年夏)小生が入学したばかりに初出場初優勝した四日市高校・公立校の奇跡が実現?、夫婦で出身校が夏の甲子園優勝経験は世界でもないもんなーと、、、、アホな空想を楽しみました。

読書・あれこれ
週末を除き平日のスケヂュールはルーチン化している日々ですが、5月の連休以降手に取って読み進めた本の一部です。
午前中はテニスやコーラスでほとんど時間はなく、昼飯後30分ほどの昼寝後、夕飯準備までの数時間と、晩飯後10時ころまでテレビを観て床に就き、寝入るまでの1時間ほどが乱読の時間。

「老いの才覚」・曽根綾子著
超高齢化を迎え歳を重ねても自立した老人になる方法を知らない人間が急増、わがまま老人への対策、老いる力=老いの才覚で対応すべきとの叱咤激励の書。

「大人二人の午後・異邦人対談」五木寛之、塩野七海著
われらが先輩、憧れの五木寛之とローマ在住、「ローマ人の物語」等イタリア史の泰斗、塩野七海のローマ市内でのくだけた対談集。10年以上前の著作を知人の書棚から拝借。おしゃれなセンスあふれる対話に魅入った。
五木寛之は髪をほとんど洗わないそうで、あの豊かな頭髪を維持してるらしい。
シャンプーなんてとんでもないそうな?砂漠の民でもないのに不思議。

「昭和史・(1926年~1945年)」半藤一利著
満州事変後、軍部の暴走を止められず、国民的熱狂が何をもたらしたか?あの無残な敗戦から学ぶ歴史書。読みやすく纏められている通史、国民必読の書。

「天正遣欧使節」松田毅一著
日本人で初めてヨーロッパを観た少年たち、秀吉の時代の燦然たる一大壮挙。
8年半の旅の後、帰国した日本はキリシタン禁制の世。彼らの行く末は?
今月初め長崎旅行で「26聖人殉教記念館」を訪れたが、帰ってきてから本著を再読した。13歳の少年達が、8年半経って帰国した後の歴史的真相を解明。

「空海の風景」司馬遼太郎著
これも長崎旅行で五島列島を訪れ、遣唐使で渡海した僧空海が「辞本涯」と詠んだ碑に触発され40年ぶりに再読。8世紀末から活躍した異能の天才空海の生涯を司馬流に読み込んだ力作。

「百代の過客」ドナルド・キーン著
目下通読中。日記にみる日本人、数百年の時をこえて「永遠の旅人」の声が聞こえるとの帯封の解説。平安時代の「土佐日記」から江戸時代の「奥の細道」など600ページに渉る大著。1983年から1年ほど朝日新聞に連載された。

夏休みも終わり残暑の残りも僅か、逝く夏を惜しみながらも秋風が感じられる頃、漸く読書の秋到来です。学生時代、ツタの絡まる図書館で講義にも出ず、終日読書に耽った時代が懐かしく思い出されます。
当時に思いをはせ、感動をもらった名作の数々、50年以上も前に読んだ記憶も当然無くなっているが、再度挑戦してみたいと思っている本もある。
4年前骨折事故で半年ほど動けなかった時期に再読した「ジャン・クリストフ」、「風と共に去りぬ」は昔の感動とは全く違った印象の読後感だった。
この秋から、トルストイの「戦争と平和」か、デュガール作「チボー家の人々」に再挑戦してみようと思っているこの頃です。
                                以上
                   2016年8月20日寄稿

  1. 2016/08/21(日) 22:40:35|
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長崎は今日も雨だった!?(長崎紀行)

              コールJUN  伊藤幸二
 梅雨真っ盛り、毎年恒例の県民プラザにて開催、東葛文化祭のコーラス出演を無事に終え、念願だった長崎旅行を敢行した。
2年程前に当地に単身赴任中の次男坊(製薬会社勤務)のマンションを基地に1週間ほどかけて長崎周遊を楽しもうとの計画を実行。
5月の連休頃に、コーラス関連の行事が終わったら行く予定と伝えていたが、航空券を安くゲットすべし、その為にはスケヂュールを早く決めて欲しいとの事、5月末ごろになって漸く、日時を確定しチケットの購入を頼んだ。
幸いに6割引ほどの早得割引で確保の連絡あり。正規の運賃では、夫婦で往復15万円以上掛かるらしいが、何とか半分ほどで助かった。
どこに行きたいのか、概略スケヂュールも連絡してくれと、、、、旅行案内(るるぶ等旅行雑誌も参考に)で大まかな計画を連絡。
ハウステンボス(5年ほど前にツアーで観光済み)と、軍艦島観光(事前予約制)はカットし、市内観光と島原周遊、五島列島(福江島・教会遺跡等)、佐世保から平戸周遊を希望したが、、、そんな欲張った計画は無理とのこと。
週末は島原半島周遊と五島列島を車で案内する、仕事のある前後の3日程は、二人だけで市内観光なら勝手に巡ってくれと、、、出発前の概略計画はほぼ決まった。雨は覚悟の上で梅雨真っ盛りの長崎観光に出発した。

昼過ぎ羽田発のJAL便はガラガラ、14時半長崎空港着、出発前に雷警報発令の為、場合によっては福岡空港か羽田に戻る事も有りとのアナウンスがあり、こりゃやばいと思ったが、海上空港の長崎空港は一時晴れ間も出ていて、スムーズに到着した。
空港出口で、まさかの息子のお迎えハップニング。事前の打ち合わせでは、空港からバスにて長崎駅前のターミナルまで行き、そこでマンションの鍵を預かって、宿に行く手筈だったが、仕事の段取りを終えて、夕暮れまで3時間ほどの間、車で案内できる所を廻るとの事。
長崎市内まで高速で40分ほど、この時間の稲佐山観光は雨雲が掛かり無理、途中で長崎半島を南下する事にし、霧雨が降り出した中、「野母崎(長崎港入港の最突端)」を目指したが、雨模様の中、伊王島と軍艦島の遠景(雨雲漂う中に軍艦らしき島影、フランスのモンサンミッシエルにも似ている?)が見える場所でUターンし、長崎市内に戻ることにした。
市内南端の大浦天主堂とグラバー邸付近に戻って、今日は大浦天主堂のみ見学。
付近はホテルや土産物屋がぎっしりで、興ざめな場所になっている。
グラバー邸は後日にして、18時頃にはマンションに到着。長崎駅から徒歩3~4分、坂の途中の13階建て。スペアキーの使い方を聞いて明日からは2人で歩き回ることになる。
長崎最初の夕飯は息子の勧めで新鮮な魚を味わう(ネットに出ている寿司屋らしい、ネタが良いのか、小汚い店だが、予約で満席)。

翌日息子は仕事に出かけ、我々2人は長崎市内の観光名所をのんびりと廻ることにした。南北7キロ、東西(山と海の狭間)3キロほどの狭い市街地は市電で簡単に行ける。(十字架を逆さまにした市電の路線図)
長崎駅前から500円の市電1日券で、大半は10~15分もあれば移動可能。平坦地が少なく坂ばかりの街並みは、超過密の感じがする。いくら移動手段が便利でも目的地への徒歩は、アップダウンが多く、じじばばにはきつか~。

先ず市内北端にある「平和記念公園と浦上教会」へ、何とか雨は上がったようで、「長崎原爆資料館」を含め御馴染みの場所に10時頃到着。
3回目の長崎だが、遥か59年前、高校3年の修学旅行で来た、この公園とグラバー邸のみ、かすかな記憶がある(当時大阪港から別府航路・船中泊で阿蘇(泊)から島原、雲仙(泊)経由、長崎から夜行で四日市まで戻った)。
観光客は外国人と中学生の団体が多いが、原爆資料館から5分ほど歩いた、赤いレンガの映える「浦上天主堂」は、我々2人のみで超閑散(誰もいない教会で♪長崎の鐘♪を唄う)。原爆投下地にも行ってみたが、黒い石碑のモニュメントのみ、誰もいない雨上がりの公園は静謐な中、ちょっと不気味さも感じた。
その後市電で南下し、途中の中華街近くで降車し、ちゃんぽんと細麺の皿うどんの昼飯(ガラすきの中華街、超閑散期という証明)。
昼飯後、歩いてすぐの「出島」へ直行。出島の完成は1636年。幕府の鎖国制度後250年余り西洋への唯一の窓口で、オランダ人のみ居住が許された状況が再現されていた。日本の近代化に果たした影響は大きかった遺構でもある。
1時間ほどかけて見学を終え、市電乗り継ぎで、市内西南端(南山手地区)海沿いの高台にある「グラバー邸」へ。
梅雨明けのように晴れて大波止場の桟橋には超豪華客船が接岸しており、夕方出航の為か外人観光客(中国人?)が乗り込む姿が間近かに観察できた。
以前来た時と違って、高台にある庭園には斜行エレベーターやエスカレーターも完備され観光客も歩いて上る距離は少なくなった。
長崎の街並み全体が見渡せて、長崎観光人気NO1スポットは、夏空が広がり、オペラ「蝶々夫人」の舞台を夢想する雰囲気の、実に気持ち良い場所だ。
1時間ほど散策後、明るい夕暮れの中、長崎駅まで戻り、駅中のスーパーで今晩の夕飯用の材料を購入(明日から島原と五島への旅行を控え)、外食ばかりでなく、今宵は(扁炉・白菜鍋)自宅での夕食にした。
8時前に夕食を終え、天気も良好、長崎の夜景を観る絶好のチャンスと長崎港の対面(西)にある「稲佐山」へ直行。東京より1時間ほど夕暮れが遅く、漸く日が沈んだばかり、星空も見えて最高の長崎夜景(新世界3大夜景?)が堪能できた。
翌朝早く(5時前)息子は佐世保へ仕事で直行、昼過ぎに戻ってきたが、午前中の3時間、小生単独行で、宿の近くにある、日本二十六聖人殉教記念館を訪ねた(最年少14歳の少年3人を含め26人が衆人環視の中磔刑となった殉教の聖地・宣教師ザビエルや天正少年遣欧使節の自筆書簡等400年前の資料多い)。
1時間ほどで見学を終え、駅前から南東部の市電終点、蛍茶屋駅から徒歩10分ほど、「シーボルト記念館(鳴滝塾)」へでかけた。
江戸末期の頃、各藩の志士達が憧れた、長崎出島、鳴滝塾は、日本の近代化燭光の場所でもある。帰り道に観光スポット眼鏡橋にも立ち寄って帰宅。
五島うどんでの昼食後、息子は午後年休を取り、島原周遊に出発した。

長崎から諫早経由、橘湾(南シナ海側)沿いに時計の逆回りで小浜温泉を経由、最初の目的地、半島南端の「口之津」港へ。
南蛮船の渡来地、三池炭鉱の石炭集積港、日本の船乗り出身地で有名な港町、天草諸島への玄関港になる。歴史資料館の観光客は我々のみ閑散。
口之津から島原の乱で有名な「原城跡」へ。天草四郎がわずか16歳で3万人以上の領民を指揮し、幕府軍の猛撃を88日間耐えたのち全滅した城跡。往時を偲ぶものは何もなく、有明海沿いに広がる城跡のみ、往時茫々なり。
今日の行程は、昨年読了した司馬遼太郎作「街道を往く」の島原・天草の道を辿る旅ともなった。
ずーと晴れ間が続いていたが、「雲仙普賢岳」は雲の中で全く見えない、火砕流の記念館(がまだすドーム)は閉館後で入れなかった。
夕暮れ迫る頃、島原市内、ホテル「南風楼」に到着。
週末の金曜、お客で混雑のホテルは有明海の海沿いに建ち、露天風呂からは正面に熊本市の金峰山や熊本市の灯火も見える距離だが、夕靄がかかって阿蘇の山並みは見えなかった。
翌日は「島原城」を見学後、雲仙を経由して昼前に長崎市内に戻った。
暫しマンションに戻り休憩後、大波止桟橋14時半発の五島行ジェットフオイル船で「福江島」に向かう。

下五島列島福江港に16時半ころ到着、レンターカーを借り夕暮れまでに島の北端にある「赤崎教会」(島では最古の教会群)に向かう。海辺に建つ赤煉瓦の小さな教会を見学後今夜の宿に入った。
夕食はなじみの居酒屋へ、地元の新鮮なウニやイサキのさしみに舌鼓を打ち、初めて食べる赤ハタの煮つけ(きんきと同じ?)の美味にびっくり。
日本最西端の島(東京から1千キロ以上西)の日暮れは遅く8時が過ぎてもまだ空が明るい。明日の島内1周に備えてビジネスホテルに早く帰った。

翌朝ほぼ四角形の福江島の北北西を目指して出発、途中で真っ白な教会(水の浦教会)を見学後、北西端の三井楽地区へ、上五島列島の島々と南シナ海のみ何もない岬の浜辺の一角に「辞本涯」の記念碑があった。
7世紀遣唐使で渡海した弘法大師空海が、日本最後の寄港地を去るにあたり記録した文章の碑らしい、此処(本土)を出れば後は風任せ、大陸へ渡る際の、悲壮な覚悟の辞であろう。
島の西側を海沿いに南下、美しい浜辺が続く、急にスコールの雨が降り出した。30分ほど大雨の中、島の西南端、日本で一番最後に夕日が沈む所、「大瀬崎断崖」に到着。
雨は上がったが風強く蒸し風呂のような湿気と暑さの中、突端の大瀬崎断崖灯台まで往復2・5キロ約1時間余、椿の木のトンネルを昇り降りしながら、ようやく灯台に到着(喜びも悲しみも幾年月のロケ地)。
往時遣唐使の一行もこれが見納めと眺めた断崖、海上100メートルほどに建つ灯台は25キロ先まで光る灯台だそうだ。
息子から、あの灯台まで往復できたんだから、我々じじばば2人は、まだ5年は大丈夫持ちそうだと言われたが、熱中症寸前、ばてばての行程だった。
付近には昼飯を食べるところも見つからず、一旦福江に戻ろうとなって13時過ぎに福江市内に戻り遅い昼食となった。全行程140Kのドライブ行で終了。

帰りの船は16時半発、上五島の奈良尾港に寄港して長崎へ、海から長崎の町を観ながら、18時半長崎港着となった。

波止場から歩いて宿に帰ってみようと10分ほどで帰宅、お疲れさんの招待旅行でした。長崎旅行も無事終了。ありがとさん。

前半には雨模様も有ったが、後半はにわか雨に降られた程度、概して午後は晴れ間の日も多く、「♪長崎は今日も雨だった♪」の確率は3割位でした。

最終日はゆっくり起きて、10時過ぎ長崎駅前のバスターミナル迄歩き空港へ、12時半発羽田行きで、猛暑の東京に14時半無事帰着。

念願の長崎旅行も叶い大満足。来年は今回行けなかった、平戸、壱岐、対馬や佐賀、福岡の玄界灘側の史跡を観光したい(今度は一人歩きで行くからね)。

長崎、よかとこです。いっぺんきまっせ!。

<追記>
長崎から帰って早や10日が過ぎたが、旅行で全エネルギーを放電したようで帰って間もなく夏風邪による熱発でダウン。やわな老体を再整備、再充電する事態となった。
ほんま、プラス・マイナス、ゼロや、、、、、、これぞ、エネルギー不滅の法則?、否”過ぎたるは及ばざるがごとし”だと思い知らされました。

              2016年7月15日 JUNブログ 寄稿
  1. 2016/07/17(日) 23:26:49|
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