コールJUNブログ

コールJUNホームページを補足する。写真も掲載。

50年前の思い今叶う(ヨーロッパへの旅)

                                   2012.7.31 安 邦男
 一昨年、中学時代に習った“ローレライ”の歌に想像を掻き立てられ、かつ憧れたライン川で川下りをすることができた。ローレライを見たいという50数年前の思いが、やっと叶った。しかし、かつての想像に反してローレライ付近の川は、スイスの源流から5百数十キロも下っていることもあり、流れはやや速いと感じたが、水量は豊かでゆったりと流れていた。スイスのバーゼルまで3000トン級の大型船が往来できるとは、驚きであった。実際に見たライン川は、水路と両岸の道路に多くの船や車が行き交う交通の大動脈であった。かつてのローレライ付近は、川幅も狭く、多くの船が水面下の岩礁にぶつかって難破した所である。このため、幾度も川幅を広げたり、暗礁を取り除く工事をして現在に至ったようである。私は、日本の深山幽谷のような風景を想像していたので、予想は全く外れ、中学時代に抱いた妖精への淡い思いもはかなく消えた。
両岸の傾斜地には、ブドウ畑が延々と広がり、所々に城塞が建っていた。城塞は、城主が川を行き来する船から通行税を取るために建てたもので、税関のような機能をしていたようだ。
傾斜地の上は、なだらかな平地が広がっているように見え、ローレライの歌にあるような山々は見えなかった。それにしても、この傾斜地は広くて延々と続く。広大なブドウ畑で栽培されるブドウの手入れや収穫、運び出しは、どのようにしているのだろうか? 機械に頼らず、手作業でやっているとしたらのどのようにしているのだろか? などと少なからず気になった。狭い土地を借りて農業の真似ごとをしている私には、気になる光景であった。
 乗船して間もなく、現地の老夫婦が目に留まった。奥様は、手に詩集を持っておられた。
「ローレライ?」と言うと、その部分を開いて歌を歌ってくれた。更に、コールJUNで練習中の“O Tannenbanm(もみの木)”の朗読もお願いし、録音させて頂いた。これで発音は、バッチリ……???

今年の5月には、中欧に行った。主な目的は、約50年前に映画で見た“THE SOUND OF MUSIC”のイメージが残るオーストリアのザルツブルグや音楽の都ウィーン、そして昨年、流山市合唱連盟15周年を記念して第九を演奏した際にご指導を頂いた指揮者の「武藤 英明」先生が活躍されるプラハの町を見ることであった。
最初のザルツブルグに入るとすぐ、滑らかに響くピアノの音が聞こえてきた。窓を開けっ放しにして、一人の生徒さんが一生懸命に練習をしていた。添乗員の説明では、音楽家を目指す若者が、世界中から集まり、研鑽に励んでいるとのこと。
そこを通り過ぎると、ここザルツブルグで生まれ、世界的指揮者として活躍したカラヤンの像があった。
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更に少し進むと、“サウンド オブ ミュージック”が撮影された憧れのミラベル庭園や果物を売っていた屋台などが見えて来た。公園の奥に見える建物などで「ドレミの歌」や「さようなら ごきげんよう」などが歌われ、撮影されたその場所なのだ。
5オクターブの音域を持つと言うジュリー・アンドリュウスの高音で透き通った柔らかな声、子供たちの澄ん声、そしてトラップ大佐とマリアによる「エーデルワイス」の歌などを今も思い出す。特にエーデルワイスは、トラップ大佐がドイツからの召集を嫌って故郷との別れを決意し、大勢が集まった祭りの会場で歌った歌であった。この時トラップ大佐は、感極まって歌の途中で声が出なくなったが、途中でマリアが大佐を支えて歌い出し、事情を知っている人々と共に会場中が大合唱になった歌である。その後、美しいアルプスをバックにスイスに逃げる一家の姿は、今も記憶に残っている。
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 ザルツブルグは、モーツアルト生誕の地で、その建物は黄色に塗られて長い旗が垂れ下がっていた。今は資料館として、モーツアルト直筆の楽譜や実際に使った楽器などが展示されているとのことであった。
生誕の地から少し奥まった所に、モーツアルトに捧げる「ザルツブルグ音楽祭」のメーン会場となる「祝祭劇場」があった。正に音楽の町である。
なお、添乗員の説明では、オーストリアは、クリスマスの日に世界中で歌われる「きよしこの夜」が作曲され、初演された国だそうである。首都であるウィーンは、音楽の町であると同時に、数多くの歴史的建造物が残る町でもあった。
次の写真は、ハプスブルグ家の離宮として造られ、マリアテレジアの時代に完成したシェーンブルン宮殿である。P1010507.jpg
外壁の色は、女帝が好んだマリアテレジアンイエローと呼ばれる黄色で統一されていた。裏庭も広大で綺麗に手入れされていて素晴らしかった。
ウィーン郊外にあるウィーンの森は、ヨーロッパ・アルプスの北東端にあって、なだらかな丘陵という感じだった。豊かな自然が残されており、ウィーン市民の別荘地になっているとのことだった。森の中には、シューベルトが若い時に「菩提樹」を作曲した場所と言われる水車小屋があった。「菩提樹」は、ウィーン少年合唱団が得意とする歌の一つであり、数10年前に同名で映画化もされている。私は、この時に発売されたレコードのドーナツ盤を今も持っている。
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 ウィーンでは、夕食後、旅行にパッケージされた音楽会(ウィーン・レジデンツ・オーケストラ コンサート)を聴きに行った。出演者は、十数人と多くはなかったが、良く響く会場で迫力があった。一部はモーツアルト、二部はヨハン・シュトラウスの曲で構成され、観光客に分かりやすい馴染みのある曲が演奏された。舞台に近い席であったため、歌手の息使いや口が張り裂けんばかりに大きく開いて歌っている顔が見えた。1曲だけ、観客を巻き込んでの歌もあり、客の手拍子も入って熱気に溢れた。この他に2~3曲、男女2人のバレーダンサーが踊りを披露してくれた。とても軽やか且つパワフルな踊りに会場が沸いた。観客を喜ばせる術を知っていると思った。
 ハンガリーでは、昼食時に4人の楽師が、“ドナウ川のさざ波”や日本人向きに“上を向いて歩こう”を演奏してくれた。ドナウ川の遊覧船でも“ドナウ川のさざ波”が流されており、さすが本場と思うと同時に中学時代に覚えた歌を思い出しながら懐かしく聴いた。
 ハンガリーの首都ブタペストから60キロほど離れた所にエステルゴムというハンガリー建国の地があった。ここには、ハンガリー最大の大聖堂があり、結婚式が行われていた。厳かな雰囲気があり、人生の門出を祝う場所として最適だと思った。内部には、大きなパイプオルガンが設置されていた。なお、ハンガリーは、フランツ・リストが生まれた所とのことで、記念にオルガン演奏のCDを買った。
 現地ガイドは、72歳の男性で、日本語がうまかった。ハンガリー動乱があったことや日本語を学ぶようになったキッカケを話してくれた。辛かったに違いないが、それはおくびにも出さなかった。今は、お子さんが医学生とのこと、自慢げで幸せそうだった。
 旅行を始めて6日目、ついに武藤先生がおられるチェコのプラハに来た。
 プラハは、ヴルタヴァ川(チェコではドナウ川をこのように言う。)に位置した美しい町であった。標準の観光コースは、各種建築様式のお城や教会、ヴルタヴァ川に架かる橋等であったため、残念ながら音楽会の会場等には案内されなかった。教会内部のステンドグラスは、とても綺麗だった。どこからか鐘の音が聞こえてきた。石作りの町のせいか、響きも良くジーンとした。この教会を出た所で、曲名は分からなかったが、辻音楽師が演奏をしている脇を通った。やはり音楽の町ということを実感した。夕食時には、トランペット、アコーデオンそれに女性歌手による音楽を聴いた。曲の一つに、“荒城の月”があったが、多少崩した演奏で丁寧さに欠ける気がした。
 プラハから200キロほど離れた所に、中世ルネッサンスの町並みが残るというチェスキー・クルムロフがある。ここで現地の女性ガイドに武藤先生のことを聞いたらご存知だった。思はず嬉しくなった。また、東京五輪女子体操の名花、ベラ・チャフラフスカさんのことも聞いた。一時不遇の時期もあったようだが、チェコでは超有名人とのこと。昨年、東日本大震災の復興支援などで日本に来てくれた。その時チャフラフスカさんは、東京五輪の時に一振りの日本刀をくれた人を探していた。その仲立ちをされたのが、武藤先生だった。この話は、昨年10月の新聞やインターネットに掲載されていたのでご存知の方も多いと思う。
 旧東ドイツのドレスデンにも行った。ここは、先の大戦で町の85%が瓦礫と化したとのこと。ここで、世界中からの寄付によって再建されたというフラウエン教会を見学した。再建に当たっては、総ての瓦礫片に番号を付け、世界最大のパズルと言われる瓦礫の組み合わせを行って教会を立て直したとのことだった。パズルの解明には、コンピュータを使ったと言っていた。近くには、エルベの戦いで有名なエルベ川が流れていた。
 旅の終わりに、ビールの町ミュンヘンに行った。町を散策した後、夕食を兼ねて居酒屋に行った。前回行ったとき店は、たいへん賑わっており、女性ウェーターが、おそらく1リッターはあると思われる大ジョッキを両手にいくつも持って、忙しく動き回っていた。相当な腕の力が必要だと思った。こんな所で本場の“Ein Prosit…”が聴ければと思ったが、今回は、やや客も少なく、静かな雰囲気だったので、ドイツの方に歌をお願いすることはやめた。ビールも病み上がりであることから、ささやかな小ジョッキで我慢した。

 今回の旅行では、横浜市青葉区の男声合唱団「ドックウッド(日本語でハナミズキの意味)」の方と一緒になった。団員は68名で、平均年齢は何と76歳。最高齢者は90歳を超えるとのことであった。70歳台に入ったばかりの小生は、鼻たれ小僧。なんとも恐れ入った合唱団で、東京の合唱で優勝したと言うから敬服するばかりである。この方々を見習って、これからも元気に歌い続けて行きたいと思う。
                                       以上
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  1. 2012/07/31(火) 22:16:05|
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たかが骨折、、、されど、、骨折入院、始末記

                   コールJUN  伊 藤 幸 二
 運命の5月19日(土)、あと一時間ほどで”さわやか・ハーモニー”コンサートのお手伝いに出かけねばと、、、、何を思ったのか? 寝室の掃除も終わり、部屋の隅にある、暖房機(オイルヒーター)を片付けなきゃー、相当の重量物だし、キャスターが壊れてる、、、横倒しにして隣部屋へ、ゆっくり慎重に運ぼう、、、床面にあと10cm位の所で、何故か、壊れたキャスターが気になって(魔が差した瞬間?)片手を離した一瞬、もう一方の手が滑り、右足甲上(つま先寄り)に落下。
ぎゃ~!と叫んだのか、う~ん!と唸ったのか、、、激痛のようでもあり、足先が麻痺したようでもあった。 やっちまった~! 想定外?、、、人生の無常、暗転の瞬間、、、。
尖った部分が当たったのか、傷口から出血し始め、手近のテイシュで止血しながら、青黒く腫れてきた足先で、歩けるかなと、立ち上がってみた、、、、、、踵を突けば何とか歩けそう、でも、つま先立ちは無理だ、、、靴もサンダルも履けそうにない。
さてどないしょう? 家内は朝から川柳の句会に出かけ、午後はそのまま、県民プラザの”さわやかコンサート”に直行し、連絡は取れない。
歩けないんなら、救急車でも呼ぶか、と思ってはみたが、、、止血さえ出来たら、、、2~3分後、テッシュとタオルで傷口を押さえ、右足は裸足のまま、踵だけで、なんとかアクセルとブレーキは踏めると、、、北柏駅前の罹りつけ外科医に駆け込んだ。
土曜の午前で満杯の患者、1時間以上待たされて、ようやく受診。直ぐレントゲン撮影の結果、「残念!骨折してるよ」と、、、。万事休す!残念、無念、お先真っ暗と相成った。
外科手術の出来る病院に直ぐ行けと言われ、午前の診察にまだ間に合いそうな、我孫子駅近くの整形外科病院へ、、、国道6号線を5分ほど運転し、昼前に滑り込みセーフ。
午前の診療終了間際だったので、待たされずに受診となった。再度レントゲン撮影となり、結果は、右足第2指甲(Ⅱ肢?中足骨)、複雑骨折、、、取あえずの救急措置として、出血部の傷口縫い合わせと、足裏をプラスチック製の添え木で固定して、、、、、週明けの、21日(月)入院、手術を宣告された。あの事態で、骨折したまま、車を運転して右往左往、今から思うと、ぞーっとするが、火事場の馬鹿力?だったんですかね。
ケガの当初、午後の”さわやかコンサート”のお手伝いは、打撲程度で、何とか行けるかもと、淡い期待を持っていたが、右足が使えず、松葉杖では無理と諦めるしかなかった。
先ず、コンサート手伝いのまとめ役、ミレニアム代表(加藤さん)に連絡をと焦りながら、携帯を持たぬ不自由さを痛感、整形病院に到着して、公衆電話を見つけ、連絡が取れて、ひとまず一安心。一段落して、どーっと落胆と無念の感情が襲ってきた。
ずーと興奮状態が続いて、あまり痛みを感じなかった?が、帰宅後は、緊張の糸が切れたのか、痛みが増してくる。
暫くして、鎮痛剤が効き始めたようで、耐え難い痛みは去り、腫上がった右足を眺めて、ため息をつくばかり、、、超ブルーな、週末を過す事となった。
週明けまで自宅待機の2日間、何とか耐え忍ばねばならない。5月末までは入院ベッド生活となり、当面、退院後も、6月中は全てのスケジュールもパーとなるのは必定となった。
この間、メールやTELにて、自治会役員の活動と高校同窓会幹事会の欠席や、コーラス関係、テニス仲間等への行事参加不能の連絡を取り続けた。
ケアレスミスによる大怪我に、皆一様に、同情?はしてくれるが、「年寄りの冷や水」とか、「体力の過信が招いた事故じゃ」、「俊敏さが無くなった証拠だ」と喝破する友人も、、、、、今更悔い改めても、過去には戻れぬ事態に、天罰じゃーと自嘲するしか、しゃーない。   この程度の怪我で済んだのも不幸中の幸い、天の配慮による暫しの休息だと言い聞かせたところで、何の慰めにもならず、、、ため息のみ出るばかりなり。
コーラス関連の行事は、4月の秩父演奏旅行まで順調に推移。テニス仲間のスキー同好会も、苗場高原での50回記念を正月明けに開催し、会社OB仲間とは、3月初旬のスイス・ツェルマットで、10回目となる節目の海外スキーも無事終了、順風満帆?に行くかと、、、
シーズン前半で残る行事は、6月の柏合唱祭と県プラ文化祭のみ、残りの行事は無事に終わると思った矢先の凶変に、やっぱし、天罰だと、、、、畏れ入った次第。
週明けの月曜、朝から金環日蝕で大騒ぎの中、それどころでは無い不安のまま、、、病院へ。
入院手続きを終え、病室は6人部屋が1床のみ空いていた。先週末の入院手続きで、満室の時は個室でも文句なしの一札を提出済みだったので、差額ベッド代の負担を免れたのはラッキー。昼前に翌日の手術の詳細説明があり、ベッドに戻って、点滴開始、、、愈々入院の初日となった。
翌日、22日(火)、朝からテレビはスカイツリー開業の大騒ぎ、こちらは手術前の、なんとも沈鬱な時間を過ごす。12時過ぎ、いよいよ移動ベッドに載せられて、手術室へ、、、、賭場に引かれる子羊の心境? 丸裸で手術衣を着せられ、まな板の鯉と相成った次第。
煌々と照らす手術室の電燈、不気味な程静かな部屋にはBGMが流れている。
執刀医と看護婦3人が揃って、、、「始めますね」の言葉でいざ手術開始となった。頭の脇にはモニターで手術の様子が写されているが、眼鏡も無く、ぼんやりとしか見えない。
ここからは、リアル?な手術室での、ノンフィクション?が始まるんです。気分が悪くなる人は、、このまま読み続けるのは、、諦めましょう、、心臓に悪いかも??
足指の間から麻酔注射開始、歯科の麻酔と同じような感覚? 痛みは一瞬、でも衝撃大!
3~4箇所、注射する内に、右足の感覚は麻痺、頭は冴えているので、手術医と看護婦の会話も聞こえる、、、「痛みますか?何でも言って下さい!ちょっと辛抱して!」、、、、手術中ずーと、美人の看護婦さんが手を握ってくれている、、、ああー~~神の手だ! 鎮痛薬の点滴の為か少々眠い感じがするが、意識が無くなる訳でもない。骨を引っ張られる度に、鈍痛、ドリルで骨に穴あけ(骨髄に2本のスチール串を挿入)し、削るような音も聞こえてくるが、鈍い感覚のみ。手術室の静かなる時間が経過して行く。
手術室に流れる、BGMからは、青春の頃、擦り切れるほどLPで聴いた、ナットキングコールのヒット曲、「too・young」、ミュージカル、キャッツの「メモリー」や、抒情歌「赤とんぼ」等、リクエストした訳でもないのに、、、、中島みゆきの「時代」のメロデイーも流れ、、、癒しのヒーリング音楽が心地よい。
手術を受けながら、こんな名曲に浸れるとは、、、暫し懐かしい郷愁の往時が想い出されて、、、キャッツ「メモリー」の旋律に、感極まったのか、不意に泪が零れて来た。
引っ張られ、持ち上げられる度に、痛い!と呻く、「もうちょっとの辛抱」と励まされるが、なかなか終わりそうにない、途中で何回も麻酔注射が追加されているようだ、、、漸く手術開始から1時間半後、「無事に終わりましたよ」と言われて、、、あー、終わった!!!
眼鏡をかけて、手術後の骨折部のモニターを見る。足指の間から2本の串(スチール7cm?)がY字形に挿入されて骨折部の補強がされている。6週間後に引き抜けるよう、先端部は指の間に少し出たまま、、、ぐるぐる巻きの包帯姿でベッドに戻った。
手術は成功との事、、、感染防止と痛み止めで、1週間は点滴、順調なら10日間で退院の予定と、、、、、、、、いよいよ、退屈?な入院ベッド生活となった。
入院で先ず経験する病院食、なんと、朝は8時、昼は12時半、夕飯も早く、17時頃と、4時間ほどの間隔で給食が配膳される。食事の間隔には閉口したが、バライテイーに富んだ献立で、此れが骨肉になると思うと、頑張って、全食完食、自宅では文句たらたらの食事や、残飯の多さに、改めて反省。味も文句なしの病院食だった。
さて、暇を持て余す入院生活となって、、、、、せいぜいテレビを観るか読書くらいとなる。有料のテレビカードは節約し、歌謡番組、スポ-ツ中継かドキュメンタリー番組しか観ない事にした。
入院時に本棚に残っていた(今春、書籍の大半を処分)、司馬遼太郎の傑作「国盗り物語」前後編(昭和46年版)を持ち込んだが(40年ぶりに再読)、1週間で読了してしまい、入院後半は、江戸時代、改暦に取り組んだ、天文方、渋川春海を描写した、最近のベストセラー小説、沖方丁作の「天地明察」を購入。
予定どうり、10日間で5月末無事退院となり、術後6週間後の6月末迄、骨折部が接着するまでは、松葉杖のまま、右足踵を突きながらの自宅療養が続く事になった。
自宅に帰えり、暇に任せて、溜まりに溜まった、コーラス関連のビデオやDVDを順番に見直す。(2004年以来、約8年分)久し振りに観る映像に、時の流れを想い、感無量。
テレビのスポーツ観戦は、テニス全仏オープン、サッカーヨーロッパ選手権(専ら録画)、後半はウィンブルドンが開幕したが、何れも夜10時過ぎからのwowow放映で、Liveを観ると明け方になってしまう。これからのロンドンオリンピックも、深夜放映なので寝不足覚悟で観戦するしかない、、、暇人ながら寝不足覚悟の体力勝負だ。
プロ野球の観戦は、有線テレビ契約もムダ、ダメ虎のだらしなさに、今シーズンは既に諦めムードとなり、全くチャンネルを回さなくなった。この体たらくでは、巨人戦にだけは勝ってくれとの思いも、虚しいだけで精神的に良くない。
ようやく7月に入り、ピン(スチール)も抜けて、リハビリが開始されたが、40日以上動かしてない足先と指は、いざ動かそうとしても、関節周りが固まっている為か、充分には動かない、7月一杯かけて徐々に動かせるよう、リハビリに励むしかないようだ。
腫れたり、鈍痛が出たり、目下の所、足指を動かすのに精一杯で、夕方になると、浮腫んだり、血流が充分に流れないようで、まともに歩けるのは何時になるのか、、、、焦る日々。
先般、コンサートで歌った「ドン・マイ!」の歌詞のように、後は振り返らず、前のみ向いて、つんのめりながらも、自力で立ち上がって行くしか、ありませんよね。
最近マイン男声で歌い始めた、岩谷時子作の「夜明けの歌」を口ずさみながら、、、今秋の秩父再演奏旅行と流山合唱祭への参加、10月初旬の高校同窓会への出席、年末クリスマス、志賀高原初スキーを目標に、、、、密かにテニス復活も期待しながら、、、、僅かに本棚に残った書籍の中から、青春時代、最も感銘を受けた、長編大河小説「ジャン・クリストフ」に挑戦し始めたところです。
秋風の吹く頃には、、、完全回復を目指しながら、、、、猛暑の夏を乗り切って行く覚悟です。
                                    以 上
                    2012年7月20日 JUNブログへ寄稿
  1. 2012/07/24(火) 22:10:03|
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歌の思い出

                      2012年7月12日       安 邦男
私は、戦後の物不足や、一部に艦砲射撃による傷跡が残る茨城県北部の日立市(合併前は多賀郡多賀町)で小学5年までを過ごした。そのような中で母は、台所に立ちながら、また野良仕事をしながらよく歌を歌っていた。歌は、童謡や戦前の流行歌が多かった。いちど母は、なぜ歌うようになったのかをぽつりと漏らしたことがあった。母は、戦前に看護婦をしており、「歌うと患者さんが喜ぶから…」と言っていた。
私は、戦後間もなく開園した幼稚園に通った。園名の頭に、“シオン”とあり、意味は分からなかったが良く讃美歌を歌った。卒園式には、当時、地方には珍しかった外国の方が2人ほど来られ、卒園を祝ってくれた。おそらく教会の関係者であったろう。
そのようなこともあって私は、子供のころから歌が好きだった。歌は、父が手回しの蓄音機と童謡のレコード盤を買ってくれたこともあり、“おさるのかごやアメフリ、十五夜お月さん、証城寺の狸囃子など“を、長さ15ミリ位のレコード針を取換えながら何度も飽きずに聴いた。
中学に入ると、音楽専門の先生がおられ、ピアノを弾きながら歌を教えてくれた。その中に、“ローレライ”があった。一人でいるとき私は、教科書にある歌詞を読みながら、「ラインの流れとは、どのような流れなんだろう。ゴツゴツした岩の迫った急流なんだろうか?」とか、「少女の歌に憧れて、人も船も波間に沈めてしまうような声とは、どんな声だったんだろう。」などと、想像をかきたてられた。(写真はローレライにて)
securedownload.jpg 以後、会社に入るまで、歌とは無縁であった。
会社に入ると、種々のサークル活動があったが、クリスマスコンサートを聴いたのを縁に、音符が読めない不安はあったが、職場合唱団に入らせてもらった。団員は、混声合唱で120人位、男声で40人位いた。練習は、パートリーダーによるパート練習を経て、全体練習に入ったので、当初抱いたような不安はあまり感じなかった。当時は楽器も少なく、音取りはリーダーが音叉ひとつでやっていた。
年に一度は、全日本合唱連盟から、確か秋山と言われる先生が来られて指導をしてくれた。私は、若さの至りで失礼をも顧みず秋山先生に、コーラスの奥義は何ですかとお聞きしたことがあった。先生は、即座に「合唱とは、高音の得意な人やその逆の人。息の長い人や短い人。大きな声が出る人や出ない人など様々である。互いの長所を生かし、弱点はカバーしあって良いハーモニーを作り出すことである。」と言うようなことをおっしゃられた。良い話を頂いた。50年を経た今でも、時々思い出しては、教訓にさせて頂いている。この職場合唱団には、3年ほどお世話になったが、その後転勤となり、またもや歌から遠ざかることになった。

私の住む自治会では、例年「納涼盆踊り大会」を行っている。4~5年前の夏、2年続けて男声コーラスによる演奏があった。これを聴いて私は、身体に電気が走った。是非入団したいと思った。その時盆踊り大会の裏方をしていた私は、別の方に担当をお願いして団員を探した。たまたま、客席の方に降りてこられた方(後で、今成さんと判明)がいた。合唱団のことをお聞きすると、同じ自治会に合唱団メンバーの「斉藤さん」がおられるとのこと。早速、斉藤さんに連絡を取って、団名や練習会場、日時、そして時々息抜きの会(主目的かも?)があるかなどをお聞きして“コールJUN”に入団させて頂いた。
今年の4月には、合唱団代表である飯野先生の故郷“秩父”に行って、兄弟合唱団である“コール四季”のチャリティーコンサートに出させて頂いた。合唱に続いて、先生の誕生をお祝いすると共に、今までのご活躍の経過が映像で紹介され、会場は大いに沸き私も感動した。
コンサートの後、2つの施設を訪問させて頂いたが、両施設とも先生方の姿を見ただけで入所者は喜び、名前で呼び合う間柄になっていることに驚いた。長年の地道な活動の結果が、このような関係を築かれたのだと思った。また、入所者が身体全体を使って演奏する姿にも感激した。音楽の持つ力、うまくは表現できないが、心に安らぎを与え大らかにする不思議な力があると感じた。
古希を迎えた今、これからも歌を通じて楽しく歌って行きたいと考えている。
  1. 2012/07/13(金) 22:05:41|
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