コールJUNブログ

コールJUNホームページを補足する。写真も掲載。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

私が暮らした所(住まいの変遷)

                 2014年9月25日 コールJUN 伊藤幸二
この世に生まれ75年、此の間、縁あって、人生を歩んできた場所(住処)を振り返ってみるのも、自分史の一面になり、何時の日にか、家族(子供や孫達)にとっての想い出話になるのではと、、、、、長い年月を遡って、其の当時のトッピクスやエピソードにも触れながら、、、、、思いつくまま、書き綴ってみる事にしました。
自分の意思では決められない誕生地や親の都合での引越しなど、幼少時の思い出にはなりますが、進学や就職等、自らの意思で活動をはじめた時期からは、色々な縁有っての住処になる訳で、人生の節目での思い出捜しでも有りますね。
社会人になる頃(成人)から還暦(定年)を迎え、サラリーマン人生を卒業する迄を、振り返ってみると、結構、変化と波乱?に富んだ人生模様(住まい遍歴)だったかなーとの思いです。長年住み慣れた場所や、ほんの短期間の所でも、其の当時の色んな事が思い出され、、、、自分本位な思い出綴りに、しばらくお付き合い下さい。

さて、昭和14年秋(1939年)、「三重県桑名市内・両親の故郷」で生まれ、1歳になる頃、父の転勤(小さな会社の東京営業所?)により、家族5人(弟と妹は生まれていない)、東京での生活が幼少期の始まりです。 
当時の住所、「本郷区駒込林町(現在の文京区千駄木5丁目、団子坂上)」は、閑静なお屋敷町で、2階建て借家での東京暮らしが始まった所です。
この借り家は戦災を免れ、、何と昭和45年頃まで戦後の25年間、兄弟姉妹の東京(学生・就職)生活の拠点として活用され、家族は東京の別宅と呼んでいました。
東京は昭和20年になると、空襲が酷くなり、3月10日の東京大空襲もあって、このままでは危ないと、親父の故郷に、避難疎開の形で引っ越したようです。 あの当時、空襲警報のサイレンの不気味な音や、大きな防空壕に何回も避難した記憶はおぼろげながら残っています。
昭和20年(1945年)春、父の祖父母達の住まう、「四日市市大矢知町(当時は三重県三重郡大矢知村)」の新居に、6人(弟が東京生まれ)の家族で転居、この頃の記憶は何故かほとんど有りませんが、祖母や親戚連中の顔ぐらいは覚えています。
敗戦前後のどさくさの中、親父は勤め先を退職?し、独立して漁網会社を起業。5歳?だった小生も、この頃から記憶に残る年齢となったようですね。終戦日の少し前に妹も生まれ、7人家族になりました。
周りは田んぼだらけの田舎町、それでも村の中心地で、旧東海道から1キロほど内陸寄りの里山地域、川も海も近く、高台からは伊勢の海が見え、大和時代の遺跡も多く、旧東海道53次の宿場町、桑名と四日市の中程、街道筋の家並みは寂れた宿場町の風情も感じらる所でした。この新居には小学校5年まで住んで、その後、親父の経営する会社が戦後のヤミ景気と朝鮮戦争の特需で大儲し、すぐ近くに旧い屋敷を購入して引越す。数奇屋作りの旅館風の広い家屋で、移転時に洋館も増築し、広い庭と、土蔵倉が残っている古い家でした。小学生後半と中学、高校と約10年ほど、家族全員と過した家で両親が亡くなるまで、約50年家族それぞれの想い出が、いっぱい詰った住処でしたね。
その後、大学受験で上京し(昭和34年)、就職後も、文京区の借家での生活が続き、転勤で移動する(昭和42年)まで8年間、昭和40年には、妹も上京して2年ほど一緒に生活しました。当時はオリンピックや新幹線開通の超高度成長の始まりの頃ですが、未だ都電で通学通勤の時代、駒込駅発の都電で、本郷肴町から本郷3丁目乗り換え、早稲田車庫迄4年間の通学後、同じ路線で、会社のある東京駅八重洲口前、BSビル(BS美術館の真上の本社)に通勤していた時代す。
昭和38年(1963年)、サラリーマンとして初出勤し、本社での研修(1週間)後、メイン工場(最新鋭の石油化学・合成ゴムプラント)のある四日市コンビナートに移動、6月末まで、工場実習と3交代勤務を体験、社宅地区にある独身寮、「四日市市森が山町・社宅地区」で、200人近い寮生や同期入社の仲間と始めての寮生活を、2ヶ月間経験しました。
6月になって、本社資材部に配属され、その後財務部門も経験後、昭和42年、大阪支店販売部門に転勤となりました。本社勤務の4年間、ハイキングや登山、スキーも初体験、麻雀やゴルフにも嵌って、楽しく充実した日々を過した青春時代?です。 当時、お節介おばさん達から、見合い話も沢山?有りながら、フィーリングの合う異性とは邂逅できず、転勤時に涙してくれる女性も現れず、真夏の7月、侘しく大阪支店に赴任。
初めての関西、単身生活の開始となり、阪急神戸線、夙川駅から六甲山寄りの「西宮市木津山町」で会社仲間10人ほどと寮生活が始まり、この独身寮での生活は10ヶ月で終りました。 大阪に移って半年後、本社勤務時にはほとんど無縁だった、出雲の姫?と、不思議な合縁奇縁の繋がり?が出来、急に結婚する事となり、阪急西宮北口駅近く「西宮市田代町」の借り上げ社宅で新婚生活を開始し、ここで長男と次男が生まれ、家族は4人となり、3年後に芦屋の新築マンションに転居。阪急芦屋川駅から2キロほどの山の手、六甲山麓の、「芦屋市岩園町」に移る。大阪湾から紀伊半島、淡路島も見渡せる高台で、芦屋の高級住宅地六麓荘の近くに住まう事に。
大阪での6年間、香枦園コート(芦屋浜)でのテニス、裏庭のような六甲山へのハイキング、甲子園での野球観戦も楽しみ、近くの宝塚方面や関西学院、神戸大などにも散歩で出かけ、緑いっぱいの環境での生活でした。大阪万博の開催もこの時期でしたね。
昭和48年(1973年)本社に戻る事になり、家族で移り住んだ所は、多摩川近くの「大田区田園調布本町」、東急東横線田園調布駅より東側(有名な田園コロシアムコートの側)の所、かの有名な高級住宅地は駅の反対側で、本町は商業施設や下町の風情が少し残っている田園調布の本家?だったのかな。
この頃、世は正にバブル勃興の始まり、オイルショックで物不足、狂乱物価の時代で、住宅価格も跳ね上がり、給料は30パーセントも上がる時代でしたが、関西の社宅生活を満喫していて、東京に転勤したら、周りの連中は既に住宅や土地を購入しており、社宅住まいに安住していた我が身の迂闊さに焦った時期。
結局、周りの世情に煽られ、住宅地探しに半年ほど駆け回り、翌年、現住地「柏市布施新町・三井住宅」購入を決断。この新居で3男坊も生まれ、家族5人、柏の地での生活が始まった訳です。 
この新居での生活は5年ほど続き、会社での販売活動も順調に続く中、化学工業視察団の名目で1ヶ月ほど、アメリカ、メキシコの化学業界と産油地を視察(視察と観光半分の気楽な旅行)、、、丁度40歳の誕生日をメキシコ・シテイーで迎えました、、、、。此れがご褒美?だったのか、帰国後暫くして、昭和55年、転勤命令で再度の大阪勤務となり。
今回は無理やり家族5人(中学、小学、幼稚園生)帯同の引越しとなりました。
前回住んだ芦屋(岩園町)の直ぐ近く、阪急甲陽園線、苦楽園駅近くの「西宮市豊楽町」に暮らす事になり、大阪平野が一望のマンションに落ち着いた。子供達の学校は毎日の登校が登山のような六甲山の中腹に有り、しんどい登り道で鍛えられましたね。結局、関西での生活は独身時代を含めて、西宮と芦屋の4箇所(8年間)に住んだ事になる。
子供達も関西生活に慣れた頃、昭和57年(1982年)、販売以外の管理部門を一度経験すべしと又もや転勤の命令、長年の販売部門から、なんと、千葉工場「市原市、京葉コンビナート」への移動となった。長男は西宮の県立高校入学済みで途中転校も出来ず、仕方なく翌年の3月まで家族はそのままにして、小生のみ逆単身赴任?「市原市有秋台(コンビナート企業の大社宅団地)」、となり、家族社宅に単身で住む事に。
始めての工場勤務に戸惑いながら、2年間、管理部門を統括する業務に邁進。
翌年3月、家族を柏の自宅に引き揚げさせたが、長男の高校転校は難渋しました。
千葉・五井、姉ヶ崎駅には、同じ県内ながら、柏の自宅から通勤は出来ず、週末のみ帰宅する、結婚後初めての単身赴任生活を余儀なくされたが、2年後(1984年)には赴任前の約束?どうり、本社販売部門に復帰し、販売の司令官として全国を走り回ることになった。45歳からの5年間は、猛烈サラーリーマンの絶頂期、、、印刷紙用塗工材(乳液状・合成ゴムラテックス)の販売部門の責任者となり、全国に点在する製紙会社の本社と工場への拡販で、北は北海道・釧路から南は鹿児島・川内まで駆け回る事になった。約5年間、販売活動に付随する出張や接待ゴルフ等で、殆ど週末も休めず、デイスカバージャパンと揶揄されながら猛烈に働いた時代です。
このまま順調に推移しないのがママならぬ人生、、、、、あまりの激務?に、肉体的にも精神的にも疲れ果て、50歳を目前にギブアップ(燃え尽き症候群?)、指揮官の戦線離脱と相成った次第。日本の景気も絶頂期に達し、バブルの崩壊もこの頃でしたね。
お粗末な次第で出世競争を諦め?定年までの残り10年、裏街道を行くスーダラ人生となり、出向に伴う移動(転居)で、自宅での安住は望めない時代が続くんです。
上司の恩情?か、暫くは休養?を兼ねて、四日市工場(別会社化した設備管理・エンジニアリング部門の総務)への転属が決まり、なんと入社以来27年ぶりの故郷四日市の工場勤務となり、幼少時から高校まで育った、四日市の自宅「四日市市大矢知町」に単身で両親と一緒に住む事になった。
80歳を越えた両親には、願っても無い息子の故郷復帰となり、女房も「亭主元気で留守が良い」と両親との同居に安心?、この時期、北大に進学した長男や薬科大と高校に在学中の息子ドモを移動させるのは難しく、当然の単身赴任(親元の自宅から通勤)となりましたが、小生の心境はなんとも複雑?でしたね。
高校卒業以来故郷を離れて30年以上、50歳での故郷帰りとなり、高校時代の友人や会社の同期仲間とも一気に交流が復活。この転勤は、年老いた両親への親孝行?にもなったようで、転勤から3年の間に父親も亡くなり、母親と息子の奇妙な同居生活(母子家庭?)になったんです。この時の転勤は、今から思い返せば”人間万事塞翁が馬”の格言を示唆する、絶妙な天の配慮?だったような気がします。
3年間の故郷四日市での勤務後、本社へ戻る事となったが、販売部門の本流には戻れず、別会社化した商事部門への復帰となって、漸く柏の我が家から本社出勤に戻れた、が、、、これで安住とはならないのが宮仕えの辛さ、、、55歳になった頃、人事から鹿島地区のコンビナート出資会社「茨城県神栖町」に出向してくれとのご命令、、、、、、此れで会社の全工場(四日市、千葉、鹿島)に勤務となった。今回も当然単身赴任、会社の管理職社宅に一人住まいとなり、食事は独身寮で摂る生活になりました。
出向先の会社は、旭ガラスとJSR、クラレの3社から経営陣が派遣され、此れまで経験した事も無い、異業種の会社仲間と一緒に働く貴重な体験(小生は総務部門の担当)、鹿島地区でこのまま、5年の単身生活が続く事になったんです。
柏の自宅には、利根川堤防沿いを、鹿島から車でぶっ飛ばし(約90分)深夜早朝の金帰月来の(週末帰宅月曜出勤)での5年間の勤務後、2000年春、1年後の退職準備か、本社人事部に転属となり、サラリーマン最後の半年ほどは、ぶらぶらと自由に過して、2001年9月末、ハッピーリタイヤメントとなりました。
38年間に及ぶ会社人生も無事定年となり、エブリデーサンデー、趣味三昧(テニス、コーラス、山とスキー、国内外の旅行等)のノー天気な日々になりました。
この頃、故郷の両親(母)の最後を見届けられたのも、50歳の決断?のお陰、定年後の充実した活動も、全て”人間万事塞翁が馬”と、自分自身で納得?する、今日この頃なんです。
諸兄の皆さん、小生の過した場所の近くに、一時でも関連が有りましたら、お声かけ下さいね、面白いお話がどーんと拡がるのでは、、、、、、と思う次第です。
本稿は、2009年11月に寄稿した、団員投稿文「過ぎ去りし青春の日々」の続編?として読んで頂ければ、と、、、、、、思っています。
                                   以上

スポンサーサイト
  1. 2014/09/26(金) 22:35:07|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

プロフィール

kilimanjaro     

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。